江戸時代には男芸者と女芸者とがあった。江戸時代には京都や大坂で芸者といえば男性である幇間や太鼓持ちを指し、芸子が女性であったが、明治になると芸者が男性を指すことはなくなり、以降は大阪でも女性を芸者というようになった。京都では以前同様に芸子とよばれる。現代では料理屋(料亭)、待合茶屋に出入りする正統派の芸者は売春を行うことはない。地方の温泉地等には一般にコンパニオンと呼ばれる派遣の芸妓などが存在し、また俗に枕芸者と呼ばれるものも一部に残っている。
呼名・異称・用字にはさまざまなものがある。下記「名称」の項目を参照のこと。
名称
芸妓は、「芸者(女芸者)」、「芸子(げいこ)」と呼ぶのが古い言いかたであるが、明治以降、「芸妓(げいぎ)」という呼名も行われるようになった(本稿ではこの呼名を用いる)。
芸妓は多くの場合、一人前の芸妓と見習とに区別されており、それぞれの名称が地域によって異なる。
- 芸妓を「芸者」、見習を「半玉(はんぎょく)」・「雛妓(おしゃく)」などと呼ぶ。
装束
- 一人前の年長芸妓の場合は主として島田髷に引摺り、詰袖の着物、水白粉による化粧(近畿系芸妓は正式にはお歯黒を付けるが現代では通常は付けない/関東系はお歯黒を付けない(関東系遊女は付ける);どちらも引眉はしない)というのが一般的である(地方などは土地柄によって束髪に普通の化粧という場合もある)。三味線箱を男衆に持たせたりして酒席に赴く。 半玉や舞妓ら年少の芸妓の衣装は、髪形は桃割れ等の少女の髷で、肩上げをした振袖を着る。帯・帯結びも年長芸妓とは異なる。この内、京都の舞妓は、だらりの帯結び、履物はおこぼ(こっぽり)などで知られる。 東京深川の辰巳芸者は「いき」をむねとし、足袋をはかず素足で桐の下駄を履き、羽織をはおることをもってその心意気とする。したがって、辰巳芸者を「“羽織芸者”」、略して「“羽織”」とも呼んだ。 芸妓は、花魁や花嫁のように右手ではなく、左手で着物の褄(つま)を取るので、「左褄(ひだりづま)」と呼ばれることもある。
制度
芸妓は通常、置屋に籍を置く。置屋はあくまで芸妓の抱元(タレントでいう所属事務所) であり、客を遊ばせる場所ではない。江戸時代には、待合茶屋にあがった客が、茶屋を通して芸妓に指名を掛け(これを「何某を呼ぶ」または「何某を知らせる」という)、揚屋で実際に遊ぶことが一般であった。ただし上方(かみがた)では茶屋と揚屋がひとつになっていて置屋が直接に指名を受ける場合が多く、江戸でも料亭や船宿が直接置屋に指名をかけ、場所を移動せずに遊ぶこともあった。当時、芸妓は遊郭で遊女が来るまでの場つなぎとして呼ばれることが多く、この点が明治以降とはかなり違う。
現在では揚屋はほぼどの土地にも存在しない。その代わりに検番をおいて置屋のとりまとめを行い、芸妓や幇間の大半はこれに所属している。茶屋(または揚屋)にあがった客は、店を介して検番に声をかけ、芸妓を知らせるのである。また、検番では、芸妓の教育をもまとめて行っている場合が多い。
利用法
通常、客は宴席を設ける料理屋にその旨を伝え、予算や希望に応じて料理屋が芸妓の手配をしてくれる。無論、指名も可能である。また、馴染みになれば 直接お茶屋・置屋に芸妓を手配し、酒席に呼ぶことができる。通常、芸妓の手配や出入りができる料理屋は決まっており、どこでも呼べるわけではないので注意 が必要である(料亭の項を参照)。しかし最近では様々な緩和により加盟店以外の出入りも見受けられる(その場合、割り増しや各種の条件がつく場合もある)。
当日その場でも空きがあれば手配も可能だが通常はあまりそのようなことはしない。
その料金のことを、関東では「玉代(ぎょくだい)」または「線香代」、近畿では「花代(はなだい)」などと呼ぶ。「線香代」というのは、時計のないころに線香1本が燃え尽きるまでの時間の料金だったからという。 このほかに祝儀(ご祝儀)と呼ばれる一種のチップのようなものも必要となる。
芸妓の料金の支払い方法は、使用した料理屋等からの請求で飲食の代金とあわせて来るのでその際に一括して支払う。
役割:立方と地方
芸妓には大まかに立方と地方との2種がある(京都でいう舞妓・芸子の別は、職掌としては、ほぼこの立方・地方の別に等しい)。地方となるにはそれなりの修練が必要であり、通常は立方を卒業した姉芸妓が地方に廻る。そのほか、芸妓には素養としてひととおりの音曲、茶道などの修行が求められることが多い。このような事情から、昭和年間前半(1930~50年代)には、芸妓出身の女性歌手が輩出した。小唄勝太郎、市丸などが有名で、「うぐいす芸者」と称されていた。
娼妓との区別
芸妓はあくまでも芸を売って座の取持ちを行うのがその勤めである。しかし、江戸時代以来、芸妓もその他の遊女と同様、前借金を抱えた年季奉公であり、過去の花街は人身売買や売春の温床となっていた。誰でも構わず身を売ることは「不見転(みずてん)」として戒められたが、第二次世界大戦後までこうした不見転はほぼどこの土地でも見られ、置屋も積極的にこれを勧めることが多かった。
しかし、あくまで芸妓は遊女とは区別され、一流の芸妓は「芸は売っても体は売らぬ」心意気を持ち、決まった旦那に尽くし、その見返り に金銭が報われるというのがその建前になっていた。むろん、こうした実態を嫌い、芸妓は客の自由にならぬものという気概を貫きとおし、一生涯旦那を持たな い名妓も多くいた。なんの自由も無いと考えられがちである芸妓だが、恋愛の自由は昔からかなり認められていたようだ。
自らの芸を以って生活する芸妓は、明治以降一種のあこがれの存在としてとらえられることも多く、雑誌で人気投票が行われたり、絵葉書が好評を博したこともあった。
旦那様
芸妓の世界にはかつてこの旦那様が不可欠だった。芸妓が存在する土地には旦那様の存在があり、いわゆるパトロンやスポンサーといったような人物であ る。しかし、適度に援助したり協力する程度のものではなく、芸妓一人を見出し決めるとほとんど生涯にわたり世話をしてくれる。芸妓が若手見習いから一人前 になるまでには多額の費用がかかる。この旦那様は着物から持ち物、装飾品や生活費まで数百万円~数千万円負担する。なかには数億円出すことも珍しくはな い。
この莫大な費用からしてみてもだれでも旦那様になれるわけではなく必然的にその土地の財界人やトップクラスの企業の経営者などで多額の金銭をポケッ トマネーでまかなえる人物あった。一方の芸妓も芸妓になれば誰でも旦那様がつく訳ではなく美貌と卓越した芸などが備わった芸妓である。若手の時に旦那様が つけばいわゆる水揚げとなり、ある程度歳を重ねていても旦那様はつく。芸妓はその旦那につくことになり、旦那様はその芸妓の一番のひいきになり面倒を見て信頼関係が構築される。 芸妓には目に見えてのメリットがある。しかし旦那様は通常家庭を持っていたりするためある程度割り切った生活でこれといってメリットはない。無論、所詮男 女なのでそのようなこともあるが、建前は健全な協力である。旦那様のメリットは「男の甲斐性」である。「あの芸妓にこれだけのことをしてやった」「こんな に金を出した」という粋なはからい。また各土地の屈指の金持ちであるから、まわりへの財力のアピールにもなる。通常は家庭と芸妓の両立が原則だが中には芸 妓にのめりこみすぎたり悪い芸妓に利用されたりと破産する者もいる。
後述にも触れられているように現在ではこの旦那様は皆無状態である。それは時代にそぐわない制度と内容だからである。不況やそのような粋なことをす る男性が少なくなったり、また娯楽の多様化や家庭重視、金銭的な問題等から芸妓にそれだけのことをする意味がないなど複数の要因となった。
しかし、現在でも京都などの大都市には僅かながら旦那様が存在する。 一方の芸妓にも意識の変化があり、仮に申し込んだ場合に断り通常の生活や結婚を望むという芸妓もおり、やはり時代の変化と言える。 このような旦那様側、芸妓側、また時代の変化により芸妓文化のある地方ではこの「旦那様」は見られなくなった。
現状
かつて日本全国に多くの花街(花柳界)があり、芸妓も多数いた。第二次世界大戦以後は、児童福祉法の制定によって子どもの頃から仕込むことが困難になり、娯楽と接客の多様化により花柳界も衰退し、芸妓の数は減り続けた。後継者不足のため、花街側は頭を抱えている状況だが、山形や秋田では会社制度に転換したりして後継者を育成し続けている。 旦那制度はほぼ無しに近い状態で、芸妓一人一人自前で着物などを用意する。 また、2007年12月19日に浅草において日本初の外国人芸者紗幸がデビュー。後継者育成を重視し、妹の募集をはじめた。
新潟市
新潟市には古町芸妓[1]が存在する。最盛期には400人いた芸妓も今は20数名程。実働は10数名となる。後継者がいないため年々人数が減少し、現在でも衰退の一途をたどっている。それにより、1987年(昭 和62年)、芸妓出入りの料理屋や財界人の出資により「柳都振興株式会社」が設立された。古町芸妓は大きく2種類に分かれており、50~60歳代の昔なが らの置屋所属の、正統派のベテラン芸妓でいわゆる「姐さん」と、この柳都振興株式会社の社員、通称「柳都さん」に分かれ、まったく別である。この会社はあ くまでも若手のみ(18歳~40歳代)で、現在の在籍人数は7人。給与は会社組織であるため、所属する芸妓も一般の会社員と同様に固定給であり仕事内容は非常に激務だが一般的な会社員給与程度で、歩合制もない。
先にも述べた通り現在置屋に所属する若手はいない。がしかし、この会社自体に芸妓の育成や養成能力はほとんどなく運営や管理であり、実際の稽古や育 成は姐さん方や地元流派の家元が行っている。別個体の会社組織だが組合に入っているため、新潟の花柳界で活動し料理屋等にも通用でき、座敷への呼び方や花 代は姐さんたちと同様である。
残念ながら、上記の通り古町芸妓の衰退の勢いは止まっていない。その原因として姐さん方の弟子取り(跡継ぎ)を全面的に中止していること(今の代で 廃業)や会社員制になったことによる士気の低下、さらには若手のプロ意識の低下、いわゆる「旦那様」の激減などがあげられ、この旦那様の皆無状態により若 手芸妓の跡継ぎを姐さん方が断念している。また地方(じかた)問題では、姐さん方は次第に引退するが、地方の育成にはある程度お座敷に出られるようになる まで最低でも10年~20年程度必要である。しかし、若手の育成のスピードが間に合わず、または若手が次々に辞めてしまうために近い将来地方は姿を消し録 音した物を流しながら踊りを踊るという最悪の状態がすぐそこまできておりなんらかの対策が求められるが打開策は見つかっていない。
もうひとつの原因として会社組織になったことと、伝統文化や厳しい世界と「いまどきの若い子」の感覚による温度差もある。これは京都の舞妓の 項にも記述がある通りに単なる憧れや一職業としてホステスやコンパニオン感覚で入門した場合にその世界の厳しさや労働と賃金との対価が納得できずに辞めて しまう者も事実、多数存在する。特にこの柳都の若手は上記の通り労働と賃金の格差が激しく月にどれだけ出ようが賃金は一律である。
京都の舞妓のようにプライベートまでしっかりとしたきめごとはなく、仕事後は鬘(かつら)をとり茶髪の今風の姿になり服装や行動も自由なため礼儀作 法の徹底不足や意識の低さは会社組織の短所といえる。舞妓のようにジーンズの着用禁止や髪結いの徹底、出入り店舗(コンビニやバーなど若者が好みそうな店 への出入り禁止)の制限などを設け若手の伝統や礼儀に対する意識改革をすべきと各方面から声が上がっている。
さらには時代の流れで娯楽の多様化、各種接待の激減(料亭の 項参照)による利用客の需要の少なさなど、料理屋や新潟の花柳界自体の衰退があげられる。なおかつ、地元新潟市民の知名度の低さもあり、いまだにその存在 や活動を知らない者や縁遠い物として関心がない場合が圧倒的多数を占めている。新潟市では芸妓と料理がセットになったプランを提供する料理屋もあるが、こ れもマンネリ化により定員数の集客が出来なかったり、料理屋側が花代を一部負担するなどという事態にまで発展している。これらの現状により、料理屋と芸妓 と双方に次なる根本的な改革を迫られている。
松山市
松山市には松山検番が存在する。大正~昭和初期の全盛期には、県内で検番が約40軒、置屋が439軒、芸妓が1350人いたが、現在は愛媛県で松山検番1軒のみとなっている。在籍人数は12人。神戸市 有馬温泉
日本最古である有馬温泉には古くから芸達者な芸妓がいてその伎芸は現在も若い芸妓に伝承されている。有馬検番があり、現在置屋が4軒、梓席・田中席[2]・わかまつ席・初音席。常に白塗りで鬘(かつら)、着物で座敷にあがる(有馬温泉観光協会[3]参照)。温泉街だが近畿の奥座敷と呼ばれ格式が高く、遊郭のような店もなく、またその様な人(ピンクコンパニオンなど)が旅館やホテルに出入りするのも禁じられている。
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